東京高等裁判所 昭和57年(う)1919号 判決 1983年3月29日
被告人 小林光雄
昭九・四・一六生 無職
主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中八〇日を原判決の刑に算入する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人高野隆が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事宮崎徹郎が提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
第一 論旨第一点は、原判示第二の事実に関し、被告人が暴行を加えた相手は埼玉県吉川警察署の防犯係巡査部長荻原松男であつて茂田正巡査ではないから、原判決にはこの点の事実誤認があるというのである。
そこで、原審記録を調査し当審における事実取調の結果をも参酌して検討すると、原判決の挙示する関係証拠、特に茂田正の検察官及び司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の「証拠品の写真撮影について」と題する書面によれば、被告人が原判示第二の日時場所において暴行を加えた相手が茂田正巡査であることに疑問の余地はない。被告人は、当審において所論に副う供述をして、暴行を加えた相手は覚せい剤取締法違反の取調を担当した荻原部長で原審公判廷に証人として出頭した茂田巡査ではないというのであるが、右暴行の被害状況を詳細に証言した同巡査に対し、同人に暴行を加えたことを前提とした質問をしているばかりか、その後の原審審理を通じて全く人違いの主張をしていないこと、被告人が暴行を加えた相手として新たに主張する荻原松男巡査部長は当審公判廷において被告人方へ捜索に赴いた際の行動を詳しく証言したうえ被告人から原判示のような暴行を受けたことがない旨明言していること等に徴し、所論に副う被告人の前記供述は信用することができない。なお、所論が指摘する茂田巡査の原審証言部分は、被告人が二階四・五畳間に入つて来たときは布団がなかつたというにとどまるものであつて、それより以前に同室内にいた康玉春に指示して布団をかたずけておいたという同証人の検察官面前調書中の供述にむしろ符合しており、これを同証人が被告人方二階にいたことを疑う証左とすることはできない。その余の所論を検討しても原判決に所論のような事実誤認があるとは認められず、この点の論旨は採用できない。
第二 論旨第二点は、原判決は原判示の捜索差押許可状の呈示の有無、警察官らが被告人を追跡した目的、捜索差押の着手の有無に関して事実を誤認し、論旨第三点の第一、第二は、原判決は捜索差押令状の事前呈示に関する刑訴法二二二条一項、一一〇条の、被告人の着衣に対する捜索の権限などに関し憲法三五条、刑訴法二一八条、二一九条の、ひいてはいずれも刑法九五条一項、三六条の適用を誤つていると主張する。そこで検討すると、まず、原判決挙示の関係証拠並びに原審で取調済の司法警察員作成の捜索差押調書及び司法警察員、司法巡査共同作成の現行犯人逮捕手続書によれば、原判示第二の事実に関する経緯は、概ね、(1)埼玉県吉川警察署勤務の坂本浩三警部補以下七名の警察官は、昭和五七年五月三一日午前七時三五分ころ、被告人が覚せい剤二包を所持していたことを被疑事実とし、差押える物件を覚せい剤、注射器、注射針などと、捜索すべき場所を被告人方とする捜索差押許可状(以下、本件令状という)を携行して被告人方住居に赴いたが、被告人を元暴力団員で覚せい剤の常用者であるとみていたので一部の警察官は被告人方周囲の見張につき、千葉巡査が玄関のガラス戸を叩き被告人による妨害を避けて円滑に入れるよう「佐藤です」などと偽名を用いて戸を開けさせようとしたところ、二階から下りてきたパンツ一枚の被告人が錠をはずして戸を開けたので、同巡査は「警察の者だけど」といつて玄関の中に入り上着右ポケツトに入れてあつた本件令状を取り出そうとすると、被告人がやにわに玄関脇の階段を二階に駆け上つたので、同巡査や付近にいた坂本警部補、茂田巡査らも被告人が覚せい剤を投棄隠匿するなど罪証隠滅のおそれを感じて被告人の後を追つて二階へ上つたところ、被告人は千葉巡査らに対し「着物ぐらい着せろよ」といつて四・五畳間の壁に掛けてあつた和服を羽織ると直ちに階段を駆け下りて行き屋外へ逃走したが、茂田巡査は新井巡査部長の指示で二階にとどまつて罪証隠滅を防止するため右部屋にいた康玉春を見張つたり同女が本件令状による捜索差押の立会人となりうる可能性を確かめるべく同部長とともに被告人との関係など事情を聴取していた、(2)千葉巡査ら四、五名の警察官は、逃走した被告人が着衣に覚せい剤を隠し持つている疑いやこれを投棄するおそれがあり、かつ被告人は捜索場所の住居主であるから本件令状による捜索差押に立会わせる必要があると判断して、被告人を説得すべく約四〇分間一、七五〇メートルにわたつて追尾したが、被告人はスコツプなどを手にしてこれに抵抗した揚句被告人方へ逃げ戻り、同日午前八時一五分過ぎごろ、前記康らとともに二階にいた茂田巡査に対し原判示の文化包丁で数回突きかかるなどの暴行を加え、午前一〇時一三分ころ公務執行妨害罪などの現行犯人として逮捕された、(3)本件令状による捜索差押は同日午前一〇時二〇分から午前一一時四五分まで被告人の義弟で近くに住む山崎岩夫を立会人として同人に同令状を示して行われた、というものである。所論は、警察官らは被告人に事前に本件令状を呈示することが十分可能であつたのに故意にこれを行わなかつたと主張するが、令状の呈示は、単に物理的に相手に示せば足りるというものではなく、相手がその内容を理解できるように見せる必要があるから、所論がいうように、本件の場合玄関のガラス戸越しに令状を示したり、玄関先の応待や階段を上る際、更には二階または被告人が戸外で逃走中に呈示したりするのは必ずしも相当でなく、前記経緯によれば、これを呈示することができる状況ではなかつたことが明らかである。警察官が本件令状を故意に示さなかつたという証拠は何もない。また所論は、千葉巡査らが被告人を追跡した目的は被告人の逃走を防止すべくその身体を実力で拘束することにあつたと主張するが、この点は茂田巡査の職務行為の適法性に影響を及ぼすものではないのみならず、前記のような被告人方へ赴いた目的やその後の言動に照らしても警察官が被告人を逮捕等する意図で追跡したとは認められない。所論指摘の捜査報告書の記載は、本部通信指令室から同報告書の作成者小川一雄警部補に対する応援指令に過ぎないから応援を要請した者の発言を正確に記載したものか疑問がないわけではないだけでなく、仮にそうでないとしても、右応援要請の一一〇番通話は途中で打切られた不完全なものであつたうえ、同報告書によれば小川警部補は被告人方へ赴いたとき坂本警部補らから同所にガサに来たとの説明を受けたのであつて、右捜査報告書中の所論指摘の記載は、原判示のとおり連絡上の過誤に過ぎないものとみられ、所論に副う証拠とすることはできない。その余の所論部分も証拠の独自の評価などに依拠するものであつて採用できない。従つて、また、前記のとおり被告人方に待機していた茂田巡査についても、所論のように被告人の逮捕等を意図していたものではなく、同巡査が本件令状による捜索差押の執行に着手しようとしていたと認定した原判決は相当である。
更に、所論は、原判決が本件令状によつて着衣の捜索も許され被告人は令状の呈示を受ける権利を放棄したもので令状の呈示はなされたものとみなし警察官の行為を適法であると判断したのは、法令の適用を誤つていると主張する。刑訴法は、司法警察職員が捜索差押令状に基づき捜索差押をする際に、その処分を受ける者に令状を示し、住居主等を立ち会わせなければならないと規定している(二二二条一項、第一一〇条、一一四条二項)。その立法趣旨は手続の公正を保持し執行を受ける者の利益を尊重するためであるから、捜索差押の開始前に令状を呈示し立会を求めるのが原則であることはいうまでもない。しかし、司法警察職員は右令状の効果として捜索場所に立ち入ることができるものであり、令状を呈示するにしろ立会を求めるにしろ相手方にそれなりの受忍的協力的態度に出ることを期待しているものであり、また司法警察職員は捜索差押の開始前といえども証拠隠滅等の行為が行われるのを黙視しなければならない道理はなく、緊急の場合捜索差押の実効を確保するために必要な処置をとることができると解されるので、処分を受ける者らの行動など状況によつては、捜索場所に立入る前や立入つた直後に令状を呈示することができなくてもやむを得ない場合があり、令状を呈示し立会人の立会を求める以前でも証拠の隠滅を防止する等のため必要な処置をとつても直ちに違法となるものではないと解するのが相当である。
そこで、本件についてみると、本件の罪質及び被告人が覚せい剤取締法違反を含む多数の前科を有する経歴等に照らすと、千葉巡査が身分を隠して戸を開けさせて玄関の中へ入り、被告人に本件令状を示すいとまもなく被告人が二階へ駆け上つたのをみて、同巡査ら警察官が被告人らに罪証隠滅のおそれがあると判断したのは相当であつて、これを防止するために被告人方に立ち入りその行動を監視する緊急の必要性があつたと認められ、しかも被告人が屋外に逃走するまでに本件令状を呈示できる状況になかつたことは前記のとおりであるが、被告人の応待いかんによつては二階などにおいても捜索差押に来た旨を説明するなど被告人に令状を呈示し説得して立会に応じさせるようにすることも可能であつたのであるから、千葉巡査ら警察官の行為に違法と目すべき点はない。従つて、その後被告人が屋外に逃走したからといつて、茂田巡査らが引き続き屋内にとどまることが直ちに違法となるいわれはないのみならず、本件の場合は二階に氏名や被告人との間柄など一切の事情が判明しなかつた女性がいたので罪証隠滅の防止や事情聴取のために同巡査らが同所にとどまる必要性もあつたのであるから、茂田巡査らの行為に何ら違法な点はない。なお屋外に逃走した被告人を追つた警察官の行為についても、被告人が和服を着用して屋外に逃走したので罪証隠滅を防止し捜索差押に立会うことを説得する必要性もあつたから違法であるとは認められないのであるが、この点は茂田巡査の職務行為の適法性に関する判断に何ら影響を及ぼすものではない。所論が原判決の法令適用を誤りであると主張するところは、いずれも茂田巡査に対する本件公務執行妨害罪の成否を左右するものではない。
そうすると、茂田巡査の職務行為の適法性を肯認した原判決は結局正当であつて、論旨はすべて理由がない。
第三 論旨第三点の第三は、原判決は公務執行妨害罪の故意について法令の適用を誤つていると主張する。しかし、同罪の故意が成立するためには行為者において公務員が職務行為の執行に当たつていることの認識があれば足り、具体的にいかなる内容の職務の執行中であるかまで認識することを要しないと解されるところ、被告人は警察官が逮捕状の執行に来たものと速断し逮捕を免れようとして原判示の行為に出たというのであつて、単に捜索か逮捕かといつた職務の内容に関する被告人の認識を争うに過ぎない本件において被告人の故意を認め公務執行妨害罪の成立を肯認した原判示は相当であり、この点の所論も採用できない。論旨は、理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、刑法二一条により当審における未決勾留日数中八〇日を原判決の刑に算入し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書を適用してこれを被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。
(裁判官 桑田連平 香城敏麿 植村立郎)